前書き その一
前書き その一
九〇年代のはじめ(たしか一九九二年だったと思うが、楽しいときのことは案外覚えていないものだ)、私はほぼ全員が作家からなるロックバンドに参加した。
バンド名はロック・ボトム・リメインダーズといって、サンフランシスコの出版社の広報担当者であり音楽者のキャシー・カーメン・ゴールドマークの提言から生まれた。
メンバーはリードギターのデイブ・バリー、ベースのリドリー・ピアスン、キーボードのバーバラ・キングソルヴァー、マンドリンのロバート・フルガム。
そしてリズムギターの私。
たいていはそこにキャシー、タッド・バーチィムス、エイミ・タンというヂィキシー・カップスもどきの女性トリオが加わっている。
元々は一回こっきりの企画で、ABCのブックフェアの余興にツー・ステージ演奏し、無駄に過ごした青春を数時間にわたって取り戻し、物笑いの種になって、それで解散となる運びになるはずだった。 だが、そうはならず、グループは解散しなかった。
あまりに楽しすぎて、やめられなかったのだ。
のちにサックスとドラムスのプロが加わったこともあり(初期のころには、われわれが音楽の師と仰ぐアル・クーパーもいた)、演奏はなかなかのものだった。
金をとれるレベルといってもいい。
もちろんたいした額ではない。
U2やEストリート・バンドではなく、街道ぞいの、ナイトクラブのお抱えバンドのギャラ程度だ。
ツアーもしたし、そのことを本にも書いた。
私の妻は写真撮り、気が向けば(たいていはいつも)踊っていた。
グループはロック・ボトム・リメインダーズとかレイモンド・バーズ・レッグズとかいう名前で今も続いている。
メンバーには若干の変動があり、キーボードはバーバラからコラムニストのミッチ・アルボムに変わり、アルはキャシーとそりがあわずにグループを去ったが、それ以外は、キャシー、エイミ、リドリー、デイヴ、ミッチ、私、それにドラムスのジョッシュ・デリー、サックスのエラズモ・パオロと全員が残っている。
もちろん、それは音楽のためだが、同時に、仲間どうしの交流のためでもある。
おたがい気心が知れているので、おりに触れて仕事(みんなからやめないようにと言われている本業)の話をするのは楽しい。
当然のことながら、内々の話で、どこからか想を得るのかなどといった質問は出ない。
そんなことは誰もわかっていないのだから。
ある日、マイアミ・ビーチでの演奏のまえに中華料理を食べているとき、私はエイミに訊いた――講演会の質疑応答の際に、一度もう尋ねられたことがない質問はないか。
大勢の熱心なファンの前で、普通の人間のように片脚ずつズボンをはくようなことはしないふりを装っているとき、答えに窮する質問を浴びせられたことはないか。
エイミはひとしきり考えてから答えた。
「言葉について訊かれたことは一度もないわね」
私はこの一言に測り知れないほど多くを負っている。
じつを言うと、書くことについての本を書きたいと前々から思っていたのだが、その動機に確信が持てず、ずっと二の足を踏んでいた。
なぜ書くことついて書きたいのか。
なぜ書くに値するものがあると思っているのか。
いちばんわかりやすい答えは、私のような売れっ子の作家なら、書くことについて多少は語るに値するものを持っているだろうということだ。
だが、わかりやすい答えがかならずしも正しい答えとはかぎらない。
カーネル・サンダースはおびただしい数のフライドチキンを売ったが、その作り方を知りたがっている者がどれだけいるか。
いやしくも書くことについて何かを語ろうとするなら、世俗的な成功以上の理由がなくてはならない。
別の言い方をすれば、くだらない自慢話や絵空事としか思えないようなものは(たとえ本書のような短いものではあっても)書きたくないということである。
その種の本(あるいは作家)は、腐るほど市場にあふれている。
たしかにエイミが言ったとおり、言葉については誰も何も尋ねようとしない。
ドン・デリーロやジョン・アップダイクやウィリアム・スタイロンのような純文学の作家には尋ねても、通俗小説の作家には尋ねようとしない。
だがわれわれ三文文士の多くもまた、及ばずながら言葉に意を注ぎ、物語を紙の上に紡ぎだす技と術に心を砕いている。
本書のなかで、私はいかにしてそういった技と術に通じるようになったか、いま何を知っているのか、どうやって知ったのかを、できるだけ簡潔に語ろうと思っている。
テーマは私の本業であり、言葉である。
このようなものを書いてもいいと端的に答えてくれたエイミ・タンに捧げる。
キング・スティヴン『書くことについて』2013年 小学館文庫 978-4-09-408764-2
King, Stephen Edwin "On Writeng" 2000/10/3 Scribner 978-0684853529